大学院に行かないことにした

この記事はU-Tokyo mech (東京大学機械系) Advent Calendar 2018のものです。

 ブログを書くのは久しぶりなのですが、こればっかりはどこかに書いておいた方がいいかなと思って重い腰を上げて、重い卒論を置いて、この記事を書いています。 題の通り、僕は大学院修士課程に進学しないことにしました。

 自分語りと言い訳の集まりで、見苦しい長文になってしまいましたが、ここで僕が書き記すものが、同じことで悩むかもしれない誰かや将来の自分自身のためになればと思います。

高校生~大学前半

 僕は高校生の時から、大学というのは勉強し、研究するために行くものだと思っていましたし、周りにもそう言っていました。 大学は一種就職予備校的な部分があって、社会のシステムとしてもう成立してしまっていますが、大学に入って遊び惚ける人を小馬鹿にしていた部分が少なからずありました。

 しかし思い返すと、高校生の時から僕は研究らしいことを何一つしていませんでした。 高校生の僕は受験勉強からの一種の逃避として、また、高校の範囲を超えた勉学に励む友人との足並みをそろえようとして、大学1, 2年生くらいの範囲の物理を勉強していました。 テキストに従って順序だって問題を解くことで、この世界のなんたるかを少しわかったような、とても青臭い全能感の下での勉強は、楽しかったです。
 ですが、本当に物理という学問自体を楽しんでいたかどうかは、今となっては疑問があります。大学入試の勉強の合間にそういう本をちょこちょこ読んで、自分は大学に行くことがゴールなのではない。大学でこんな風に勉強するのだと、自分の中で勝手に「大学に入って遊び惚ける人」よりも自分は優れている、みたいな格付けをしていたのかもしれません。  

 ご存知の通り、大学初等物理なんてものは高校の数学に毛の生えたようなものです。だからこそ高校生の僕でもテキストを読み進めることができていました。 じゃあ、そこから先って何をするんだろう? ……相対論とか、量子論とか、そういうものの勉強だろうか? そう思って、大学に入ってからも、ちょこまかと勉強していました。高校生の時と同じペースで。なんとなく気が向いたときに、数十分くらい本を流し読む、みたいな、到底身につかない勉強ともいえないようなものでしたが。

 大学にはいろいろな人がいます。授業に出て、単位を取れれば良しとする人もいれば、輪講のような勉強会に積極的に参加して並々ならぬ時間を勉強に費やす人もいます。 また、授業にも様々な難易度が存在します。いわゆる楽単は出席と簡単なレポートで単位が来ますが、専門的な授業をしっかりと履修、習得するには、これまた並々ならぬ時間を費やす必要があります。

 自分の勉強は、前者のプラスα程度のものでしかなく、後者の意欲的な学生に対しては全くもって不足していました。

 弊大学には2年生の半ばまで、全員教養学部として扱われ、それ以降はそれまでの点数を指標にどの学部へ行くか選ぶというシステムがあるため、授業の成績が重要になります。

 1年生の講義やることなんて、大学の勉強の入口も入口。春学期は高校の時の勉強の貯金で、試験前にまとめて勉強する程度で何とかなってしまいました。結果、テストの成績は上々で、ほぼすべての学科に行けるほどの点数でした。あとは1年生の冬学期で点数をそれほど落とさなければ、2年生の春学期は必修も少ないので、まあ大体の学科には行けるだろう、という打算をしてしまいました。 冬学期の科目の平均が75点くらいあればいいな、と。

 当然のことですが、そもそも学問に75%覚えておけばいい、なんてことはありません。全部覚えて、理解して、その上に新たな命題の証明があります。なんとなく雰囲気を掴む程度では使い物にもなりません。 結局冬学期の数学はボロボロでした。一方、物理系の科目はまだ高校の貯金とテスト前の詰め込みでなんとかなったので、実際の点数はそこまで悪くありませんでした。
 冬学期は難易度の高いゼミも履修していましたが、サークルを言い訳にして途中から行かなくなってしまいました。 個人的に読もうと思っていた学術書も、たくさん買うだけ買って、ほとんど読み進めていませんでした。

 僕は大学に入って、遊び惚ける人になっていました。
 それでも何とかなってしまっていたのです。テストの総合点だけ見れば悪くなかったし、学術書もチラチラ見ていたので、自分は勉強をちゃんとできる人間であると錯覚していたのかもしれません。しかし、それは高校生の時の貯金を切り崩しているに過ぎません。新たに勉強をして知識の貯金をすることを怠っていました。  

 いざ、進学する学科を選ぶにあたって、僕は迷いました。 点数的にはどこにでも行くことができます。もともとは理学部物理学科に行くつもりでしたが、振り返ると僕が今まで読もうと思って買いためて、読んでこなかった大量の学術書がありました。

 そこで、自分には物理学は向いていないんじゃなかろうかと考えました。安直すぎますけれども。
 上で述べたように、結局僕にとって物理学は受験勉強のストレスを発散するための捌け口に過ぎなかったんじゃないか、と思ったのです。それはおそらく本当にそうなんだと思います。悲しいことですが。

 まあ、そのときはいろいろと考えて、工学部に行くことにしました。ロボットとかAIとかをやるところです。 一年生の終わりか二年生の始まりごろに機械学習という存在を知って、面白いなあと思いました。ちょうど世間でもディープラーニングがやいやい言われだした頃だったと思います。 これも高校のときの貯金なのですが、もともとプログラミングを多少はしていたのでそれが生きればいいなと思ったというのもありますし、その学科の宣伝文句に、「ロボットを作り、人間を知る」みたいな言葉があるのですが、これに惹かれたのだと思います。人間、知りたくないですか?

大学後半

 いざこの学科へ来てみると、3年生の半ばまでは、AIに関する授業はほとんどなく、機械に関するハードウェア寄りの部分が主でした。 新しい概念は多かったですが、まあ覚えれば何とかなるもので、試験前に詰め込むと案外楽に乗り切っていくことができました。

 3年の冬学期から、いよいよ本格的に専門科目が始まります。
 弊学科では、ある程度の期間、自分で何らかの課題を設定して実際にロボットなりプログラムなりを作ってみるという演習があります。 そこで僕は強化学習を自作したリモコンカー的なものに乗っけて、勝手に賢く動いてくれないかな~というのをやっていました。 セットアップを作るのは、工作をしているようなものなので結構楽しかったです。電子部品の通信プロトコルを調べて、ちゃんと指示を出すと指示通り動くというところまでにすごく時間がかかり、肝心の人工知能部分がすごくおざなりになってしまいました。たいして理論を調べもせず、データセットの質も悪く、当然のように失敗しました。まあ、ディープラーニングでなんとかして~みたいなありがちな期待をしてしまったということです。
 とはいえ実際に手を動かして作ってみるというのは楽しかったです。結果できたのは簡単なラジコンとして遊べるくらいのものでしたが。

 この少し前から、知り合いの伝手で小さなゲーム会社で長期インターンをしていました。 楽しんでお金を稼げるのはすごく幸せでした。キャラクターやカメラの動きの制御が主な業務で、自分のセンスで味付けしたものが実際に世に出てカッコいいといわれるのはクリエイター職ならではだと思います。

 4年生の春学期は授業に行きつつ、研究室に行きつつ、インターンに行きつつ、といった感じでした。 研究のテーマがなかなかまとまらず、研究会で発表する前はいつも徹夜でなんとか説得力がある発表にしなければと頑張っていました。スライドも発表も英語でしなければならないので、準備に時間がかかります。中間諮問前の時期はほぼ毎週徹夜でした。 結果、中間諮問では先行研究のソースコードをちょっといじって意味ありげなデモビデオを作り、それっぽい比較をして発表をしました。まあ、その時期にしては悪くなかったと思います。

 結果が悪くなかったというのも災いして、僕は夏休みに大学からも研究からも、完全に足が遠のいてしまいました。
 弊学科ではほとんどの人が院に行くため、夏休みはみな院試の勉強に費やします。そのため研究室で勉強するか、自宅で勉強するかの二択をみな選ぶわけです。 僕はというと、インターンに行って、帰ったらアニメを見るか趣味のプログラミングをしていました。 院試の勉強はしていませんでした。院に行くモチベーションが自分の中でまったく湧かなかったからです。
 そのころは、自宅でずっと、なんとなく考えていました。

 毎週のように発表の準備をしていました。なぜ自分の研究が必要なのか。既存研究と比べて何が優れているのか。それは別の手段ではだめなのか。 新しい手法を考える時間より、自分の研究の基礎的な事項を勉強する時間より、自分の研究の位置づけを考える時間の方が長かったのです。研究の在り方としては良くないですが、そうなってしまいました。僕はなんだか自分の全神経を使って言い訳を考えているような気がしてきました。
 もちろん、自分のやっている研究について、一定の意味はあると思っています。面白いとも感じています。でもそれは数独パズルをみて面白いなぁといっている程度の面白さでした。××だから、××のために、自分は研究をなんとしてもやるべきだ、という大義名分が自分の中で持てなかったのです。
 インターンの存在も大きかったです。大学院に行かなくても、ここに就職できる。楽しみながらお金を稼げる。
 それなのに、苦しんで、お金を払って、大学院に行く理由が、僕にはあるのだろうかと考え始めました。

そもそも研究のなにがつらいのか

 僕は、一つの時期に一つのことにしか集中できません。
 そしてもともと持っている飽きっぽい性格のために、その集中力は短期間でいろいろなところへ飛び移ります。結果として、今まで色々なものに手を出し、様々な分野で初心者を超えたくらいのことができるようになりました。

 僕が普段の生活で最も充実している瞬間は、何かの修練度を上げていくときです。お絵描きなら、はじめは下手くそな絵が、練習をして如実にうまくなっていることがわかるフェーズです。しかし、ある程度うまくなると、だんだん成長率に陰りが出てきます。そういうときは、別の未知のことをまた開拓します。あるいは、昔にやっていた趣味を久々に掘り返すと、前に躓いた壁をひょいと乗り越えてしまうこともあって、再びハマってさらに上達する、という周期の長い趣味スパイラルを形成しています。  

 趣味は、ほかに何のタスクもない状態、あるいはタスクはあるが、ちょっとは先延ばしにできる状態のときに、一番ハマります。前者なら長期休暇時。後者なら、テストがあと一週間後だが、3日前から勉強を始めたら何とか乗り切れる、とか。
 しかし研究は、考えること、やることにキリがありません。常にやることしかありません。しかも、卒論という激重のタスクが一つだけポツンとあります。一日や二日徹夜した程度ではどうにもなりません。常に、一定以上の負荷がかかり続けます。そのためにタスクに切り分けをするのですが、どうにも、僕には苦手でした。
 その結果、僕は趣味に集中できなくなってしまいました。かといって、研究もなんだかやる気にならない。ずっと無意味な時間が経過します。そして夜になって、今日一日、研究をしなかったことを悔い、必死にPCにかじりついて、でも眠たい頭で集中できるはずもなく、さらに無意味な時間を過ごす。その連鎖となっていきました。

 ある方にこう相談をしました。
「就職すると、会社にいないときは自分の好きなことができる。研究をしていると常に研究のことが頭にあって、自分のその時にしたいことができない。だから就職をしたい」
 するとはその方はこう答えました。
「君の言っていることは、逆にすごく研究者向きだと感じる。僕は日々の仕事の合間になんとか時間を作って研究のことを考えてる」

 そのとき僕は、研究者というのは研究が好きな人がなるのだ、という至極当然のことを思い出しました。研究は創造性の極地であり、研究分野もある程度自由に選べます。好きなことを研究にしたらひょっとしたら楽しいのかもしれない、と思いました。でも、現在自分がやっている研究が、どうしようもなく楽しいとは思えないのはなぜなのでしょうか。

 答えは結構簡単に見つかりました。

 研究として成立するには、「新規性」「有用性」「一般性」がなければいけません。
 僕のしたいことは「まだ誰もやったことがないし、学術・産業界にとって有意味であり、普遍的なものであるもの」を作ることではありませんでした。

 料理をしたい、と思ったときに、まだ誰も作っていないレシピを開発して、100人にアンケートを取って定量的にこのレシピのすばらしさを発表しよう! とはならず、既存のレシピでも、自分が、あるいは自分にとって大切な人が、おいしいと思えば僕はそれで満足してしまいます。

 正直なところ、人類の役に立ちたいと思ったことは人生で、ただの一度もありません。また、知的好奇心はありますが、いろいろな学術書を途中放棄する程度に、僕の知識欲は大きくはありませんでした。
 僕の人生のモチベーションは、誰かに楽しんでもらうことでした。「人を知る」というこの学科に惹かれたのも、それが大きな要素としてあります。しかしその手段として、研究というのはあまりに遠回りに思えました。もっと簡単に人を楽しませる方法は山ほどあります。

メリットとデメリット

 2年間研究ができることがメリットになるかデメリットになるかは自分次第でしょう。
 就職も大学院に行くメリットの一つになり得ると思います。就職予備校感があってとても嫌なのですが。

研究

 院に行って自分が楽しいと思える研究をするということも考えました。研究がデメリットになっているから院を選べない。だから研究をメリットにすればよいということです。

 でも、結局僕は就活をしたり、いろんな会社のインターンに行ったりすると思います。まだ修論が遠い先にあるM1のときなどは、趣味に溺れるでしょう。すると、絶対に勉強に時間を使うことができません。絶対に大した研究になりません。基礎も固めることができないでしょう。そして二年後、今よりさらに結果を求められる修論において、いまよりも苦しむことは明らかです。
 自分が、研究ができないという諦めを前提にして話すのはとても嫌ですし、コツコツやったらええやん、って感じなのですが、僕は器用ではないので同時にいろんなことを考えるのは不可能なのです。

 そんな僕が研究を楽しむためには、僕はおそらくなりふり構わず勉強をしなければなりません。就活も、インターンも、なにも考えず、博士課程に行く前提で研究をする。そうすることで、たぶん僕は初めて研究を楽しめる可能性がでてきます。でも、僕にはそんな度胸も、研究に対する熱い思いも持っていません。

 それと、元も子もない話ですが、僕の興味分野的に、性能の良いPCとオープンな論文投稿サイト、arXivさえあれば足りるということもあります。研究室に割り振られる予算を使わなくても自宅に給料三か月分くらいのPCを買えば、結構自由にできるわけです。

 まあ、研究室の一番いいところである、相談できる頭の良い人が周りにたくさんいるという環境はなくなってしまいます。それは間違いなくデメリットです。でも、お金とか、学位をもらうのでなければ、自分が楽しいと思いさえすればよいのです。趣味ですから。直感で、大雑把な理解で、再現実験を行うだけで、楽しいです。理論をすべて理解したうえで行う研究に比べると、薄っぺらいのでしょうけれども。

就職

 もし大学院を修了すれば、国内最大手のメーカーの開発職をおそらくは容易く獲得できます。ネットの情報を見る限り、上手く出世コースに乗れば30~40代で年収1000万に達するのでしょう。新卒一括採用による内部の出世競争みたいなものを考えると、おそらく新卒でなければ入れない、出世できない会社がたくさんあるのでしょう。経験がないし、ろくに調べてもいないのでわかりませんが。
 でも、別に大企業へ行って安定した仕事につかなくても、世の中には幸せに暮らしている人たちがたくさんいますし、大企業に行って何かしらに満足できずに辞めてしまう人もたくさんいます。
 自分はどうしたら幸せになれるのでしょうか。
 どうすれば幸せになれるかどうかわからない将来のために、2年間を確実につらい時間に使うのは、果たして幸せなのでしょうか?

 また、仕事という観点では、IT系の企業だと国内でも転職は一般的で、学歴ではなく前職で何をしたかの方が重要であるみたいです。まあアメリカ的な価値観が入ってきているような感じでしょうか。ベンチャーも多いですし。つまり、いわゆる人気企業に行きたければ院から新卒採用ではなく、就職先で何かしら人に誇れる成果を上げて自分を売り込むという手段もある、ということです。それに、僕が就職するインターン先のゲーム会社だって、今は小さいですが、大きくなっていく、自分が大きくしていく余地があります。そこでちゃんと仕事をして技術を身に着ければ、たとえ転職をするときでも修士号を持っているかどうかは些細な問題となるでしょう。

 しかし、世の中には一つの恐ろしい理論があります。
「ダメなやつは何をやってもダメ」理論です。

 この理論で行くと、研究ができない自分は就職しても結局技術を身に着けたり、人に誇れるような仕事はできない、ということになります。これは一種呪いのようなもので、ブラック企業の人が「こんなことで音を上げるようじゃお前はだめだ。お前みたいなやつはどこに行ったってダメなんだから、雇ってやってるこの会社に感謝しろ」って言うものに近いものを感じます。
 特に、「研究」という抽象度が厄介で、研究ってすべての知的労働の根幹という感じがするので、「研究ができないやつは、どんな知的労働をしたってダメ」というのは激しい説得力を持って襲い掛かってきます。
 でも、だから小さい会社に行くのはやめといて、無理して院に行くというのは、「自分は何をやってもダメなので、頑張って修士号という肩書をもらって実力もないのに大企業に入ります」と言っているみたいでダサすぎないですか?

 あるいは、研究ができないからって就職するの、結局大学2年の時に物理の勉強をしてないから工学部にいったのとおんなじじゃん。どうせまたすぐつらいつらいって言って逃げ出すんじゃないの? という問いが、自然に発生します。どうなんでしょうか。わかりません。

 僕は、適材適所という言葉の方を信じることにします。自分は学術界には合わなかったけど、ゲーム会社で働けば、毎日会社という場所で、商品を遊んでくれる人を楽しませるために、本気で働くことができ、家に帰ってそのときの好きなことをするというルーティーンが自分に合っている。そう期待することにしました。

 それでもしダメなら……ダメなやつなりに楽しく生きる方法を考えます。

さいごに

 院試に受かった上で就職を選ぶというのは、研究室に不義理ですし、本当に行きたかった別の誰かに対しても謝らなければなりません。申し訳ありませんでした。